サダコさんは、10日間程入院され、今月初旬に無事に退院することができた。
職員達の喜びようは、わっしょいユニット広間に貼られた「おめでとう!」の幕を見ればわかる。退院祝いのメッセージは、一人だけでは満足できなかったようで、示し合わせたように2枚!別々の職員が書いた幕が壁に貼られていた。
入院前のサダコさんは、夜のパットを交換するときや、体の向きを変えるとき等、こちらが体を触ろうとすると手を振り払われる程に嫌がられる方だった。そのため、夜勤者は、嫌がることがないように、細心の注意を払いながら関わっていたり、時間をずらして再度関わることもしばしばだったのだが、、。
退院してきてからというもの、「すんなり」と体の向きを変えさせてくれるようになってしまった。なんの抵抗もないのだ。
「すんなり」と関わらせてもらえることは別に悪いことではないのだが、、なんだが、されるがままのサダコさんは、サダコさんじゃないような気がした。サダコさんらしくない、、感じ。
退院から10日ほどがたった朝の申し送りで夜勤者が報告した。
「今日は寝ている体の向きを変えようとすると、入院前のように体に触れた手を振り払われました。あ~なんだかサダコさんらしさが戻ってきたな~、元気になってきたんだな~と嬉しく感じました」と話していた。
夜勤者としては、体に触れただけで嫌がられてしまうと正直わずらわしさがあったりするのだが、「すんなり」言うことを聞いてくれるようになったサダコさんよりも、嫌がり、抵抗されるサダコさんの方がサダコさんらしくて嬉しく感じたのだった。
老いてくると段々とこちら側からの関わりを割と「すんなり」受け入れてくれることが増えてくる。「食事」「お風呂」「お手洗い」等、全てにおいての行為を身を任せてくれるようになってくる。
「すんなり」と身を任せてもらえるまでの過程は人それぞれで、ゆっくりゆっくりだったり、突然その日がきたりするのだが、「すんなり」な時期が来た、ふとした瞬間にこれまで関わってきた日々を思い、なんとなく寂しい気持ちになる。
あ~一緒にトイレに行くことも「すんなり」と受け入れてくれるようになったのか、、あれだけ嫌がっていたのにな~、あ~お手洗いの時のズボンや下着の上げたり下げたりもすんなりとさせてもらえるようになったのか、、こっぴどく怒られていたのにな、、と思う。
例えが適切がどうかはわからないが、親離れをしていっている子供の成長をみているような。爪を切ったり、耳垢とったり、歯を磨いてあげたり、ひらがなを教えてあげたり、、そういったことをいつの間にか自分でするようになって、親の手が少しずつかからなくなってきた時のような、ちょっと嬉しくも切ない感覚?感情?に似ている気がする。
実は入院をきっかけに「すんなり」「されるがまま」系?となって退院してくるお年寄りは多い。
サダコさんは10日間程の時間はかかったが、少しだけサダコさんらしさを取り戻してくれている。「すんなり」になるには早すぎる!!これまで時間を共に過ごしてきた自分としては、そんな人柄でもある気もする。
決して「老い」を認めていないわけではないし、できないことが徐々に増えてしまうことは当たり前のことで、関わっている自分達もそれぞれの方が老いていく過程は受け入れていかなければいけない。そんな風に頭では理解しつつも、その方らしさを取り戻せた時とか、その人らしさを不意に取り戻した瞬間に、大きな喜びを感じてしまう。
あるがままの「老病死」を認めつつも、「すんなり」な方になってしまうことが何だか寂しくなると言うのは、矛盾しているのかもしれない。
中には早く「すんなり」になってくれないかな~とか思う方がいることもあるが(笑)
そんな方でもやっぱり「すんなり」になってしまうと、なんだか「らしくない」じゃない、、とか思ったりもする。なにより「すんなり」いかないことがたくさんあればあった人ほど、後々の苦労話エピソードがより色濃くもなったりするもので、、。
「すんなり」いかない時の葛藤と、「すんなり」いくようになってしまった時の寂しさについて色々と思いを馳せることになった朝の申し送り。
何はともあれ、少し老いの階段を降りたサダコさんではあるが、その段差は最小限だったようだ。よかったよかった。