こーして、こーして

霧雨煙る6月の朝、フサエさんとマサコさんが何やらひそひそ熱心にお話しされていました。

二人揃って長い円筒状のものを両手で上から下になぞるようなしぐさを繰り返し、お互いを見つめてはうんうんと頷いておられます。

少し離れた台所からその光景を眺めていたのですが、大きな窓から差し込む曇り空の反射光の中で、二人の姿は妖しげな影絵のように上下に蠢いており、村々の最長老クラスしか仲間にまぜてもらえない感じの儀式みたいで、なんだか気になって仕方がなくなってきました。

洗いかけの皿を放り投げ、どこからどう見てもぺーぺーの私は、儀式にまぜてもらえないかもしれない不安と闘いながら二人に近づいていきました。

フサエ「こ、こんなして、こんなして、、ねぇ!」

1

マサコ「そそそ!こーして、こーして!」2

老婆たちの静かな熱狂を記録しておこうと、床板にねそべってかなりのローアングルでシャッターを切るぺーぺーを、まるでそこにいないかのように無視して二人は透明な円筒形をなぞり続けています。ひたすら「こーこー」言いながら。

ぺーぺー「あ、あのぅ・・・」

マサコ「あなた、そんなところに寝そべって何してんの?」

ぺーぺー「え?いや、その儀式、なんというか、、僕もまぜてください」

フサエ「うんうん」

マサコ「儀式って何?」

ぺーぺー「いや、そのさっきのこーして、こーしてってやつ」

フサエ「うんうん」

マサコ「私たちはね、戦争中は電気の傘からこーして黒い布を提げて、たったこれくらいの小さな灯りの輪の中で本を読んだのよ‥」

ぺーぺー「へ?」

マサコ「もうそれもね、ケンペーが回っているの。見つかったら逮捕されるのよ!」

ぺーぺー「なぜ?」

フサエ「うんうん、灯りが漏れる!」

ぺーぺー「灯りが漏れるとなぜ健平さんから逮捕されるんですか?」

マサコ「トーカカンセーよ、そんなことも知らないのあなた!」

ぺーぺー「・・・・」
灯火管制(Wikipedia)
戦時において民間施設および軍事施設・部隊の灯火を管制し、電灯、ローソクなどの照明の使用を制限することである。それにより、敵が状況を把握することを防ぎ、また、夜間空襲もしくは夜間砲撃などの目標となることをなるべく防ぐことを目的としている。都市部の民家などにおいては方法として窓をふさいだり照明に覆いを付けたりした。ただ、第二次大戦においては、B-29は高性能のレーダーを搭載して都市の市街地を爆撃することもできたため、既に効果が低かったとされる。
そんなことがあったのですね。

別に二人はUFOを呼ぼうとしていたわけではなかったのですね。

なぞっていた透明な円筒形は、電気の傘から垂れ下がる布きれでした。

朝から雨の降る日は窓の外に広がる油山も霧で隠れて、外にも出れないしなんだか憂鬱になるときがあります。そういう時には宅老所の土間の大きな窓と、その近くに灯る素敵な照明がとてもいい仕事をしてくれます。

窓と照明の傍にいくつかの座椅子を置いておくと、お年寄りは自然にそこに集い、少ない言葉でも相通じる共通の体験を、静かに、時にはあつく語り合って過ごすことがあります。

Wikipedeiaで調べる灯火管制は、どこか遠い国の遠い時代のように私たち世代にとっては他人事のように感じてしまうのですが、お年寄りの実体験を伴う固有の語りの中には、その日その時にその人の話を聞くことでしか知りえないことが沢山詰まっている気がするのです。

さあ、インターネットに飽きてきたそこの貴方!

お年寄りのループする昔話をひたすら聞き続けたいという奇特なそこの貴方!

雨の日は桧原のよりあいへ、コーヒーでも飲みに来ませんか?

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4 thoughts on “こーして、こーして

  1. そういえば、憲兵が、進歩的な考えをもっていた私のじいちゃんを、捕まえて、拘留されたことがあったと、亡くなった母から、聞いていましたっけ。
    戦争に負ける・・・と職場で話したらしいです。 
    そんな時代が再び来ないように、したいですね。 道子

    • コメントありがとうございます。それはおじい様もどんなに口惜しい思いをされたことでしょう。そしてその憲兵にも憲兵を思う家族がいたのかもしれません。そういうことをいろいろ想像するとやるせない気持ちになります。
      私はこれまで選挙には行かなかったのですが、戦争の時代の空気を吸って生きてきたよりあいのお年寄りたちの言葉を聞いているうちに、はじめて今度の参院選(21日)はちゃんと投票に行こうと思うようになりました。
      ここのところ戦争が他人ごとではないことをじわっと実感しています。轍を踏まないように。

  2. お二人の「儀式」、面白くそして感慨深く拝見しました。
    「灯火管制」 ・・・ 小学校(「国民学校」)1年生で終戦を迎えた私の幼い日の記憶にも、枕元に「防空頭巾」を準備して床に着いたことや「警戒警報」のサイレンが鳴ると家族揃って近所の「防空壕」に急いだこと、「隣組」揃っての「防火訓練」(近くに焼夷弾が落ちることもありました)などとともに、当時の日常生活の一部として鮮明に記憶に残っています。私たちの所では「憲兵」ではなく、「隣組」の組長さんが「国民服」に身を包み夜回りして、「こーして、こーして」の黒い布の下ろし方が 悪い場合には厳しい警告が飛んできていたことでした。
    考えてみれば、「ペーペー」さんだけではなく、今は圧倒的に多くの方々がこんなことはご存じないのですよね。 こんな小さなエピソードでも戦時中の体験を語り継ぐことは、私たち高齢者の大切な役割かもしれません。「もう戦争はないのだ」と「新憲法」を大歓迎した多くの人達の気持ちが踏みにじられかねない昨今の政治の動きを感じるにつけ、そう思います。「こーして、あーして」は、あらためてそのことを気付かせてくれました。
    フサエさん、マサコさん、そして「ペーペー」さん、有難うございました。

    • こちらこそありがとうございます。
      先日よりあいの職員研修で「生活とは何か」について、皆で話をしたことがありました。その時に各自の思う「生活」観を出し合ったのですが、それが千差万別で、聞いているだけでとても面白かったのです。
      「日常生活の一部として」鮮明に記憶に残っています、と書いていただいた部分を拝見して、すぐそこに在る危機への備えが日常だった戦時を生きた方の「生活」観と、その空気が薄れてから後の時代に育った人間の考える「生活」は、私たちが話し合ったバリエーションを越えて、根っこがまるで違うものなのかもしれないと思いました。
      よりあいのお年寄り(ここでは大正末期~昭和初期に生まれた方たちです)が私たちに向けてはっきりと「戦争はダメだ」と声高なメッセージを込めなくても、その当時どういう生活をしていたのかを(SHUNさんの言葉を借りたら小さなエピソードを)窓辺の椅子に腰かけてくり返しくり返し話している時間の中には、時々遠くから聞こえてくる「暗い響き」が混じっています。でもお年寄りはそのことを懐かしく話しているので、戦争中のことなのに、「少しのあたたかさ」もまた、同時に感じます。
      幅広い世代がひとつの場所で暮らすことが失われたら、肉声を直に聞くことでしか得られない体験の実感は私たちに刻まれず、確実に薄れていってしまいます。
      『「もう戦争はないのだ」と「新憲法」を大歓迎した多くの人達の気持ち』があったことを、こうして教えて頂くまで私は知りませんでした。ずっと忘れずにいようと思います。

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