ご飯を今一つ食べてくれなくなったおばあちゃんがいる。
食事が目の前にあるのに、固く閉じた口は一向に開く兆しを見せないことが増えてきた。
2時間くらい根気よく食事するお手伝いをすれば何とか食べてくれる時もある。一日一食食べたり食べなかったりの日もあれば、調子がよく、二食食べてくれる日もあったりする。
職員達は食べてもらいたいと想い、粘る。いつかこの固く閉じた口が開くと願い、粘る。その多くの想いと願いと粘りは固く閉じた口の前に撃沈することが多々ある。
正直なところ、開いてくれない口にイライラすることもある。溜息してしまうこともある。なぜ??と悶々とした気持ちになることもある。
好みの食べ物、飲み物を毎回準備してみる。食形態を工夫してみる。口腔ケアに力を入れる。生理面、医療面からのアプローチを考える。アイスノンで首筋や頬を刺激してみる。そもそも目が閉じていることが多いので、目が開いている時のタイミングを見計らってお手伝いをする。こうしたら食べるかも、ああしたら食べるかも、、これはよく食べてくれた、あれは口の開け方が違った等と職員同士が様々な意見を交わす。
このように食べてもらうことに集中しすぎた時間と日々を繰り返してきた結果、大事なことが抜け落ちていることに悩み始めた職員が一人、二人と現れてきた。
食べてもらいたいのは、職員達。それはもちろん、この先も変わらず元気で過ごしてもらいたいと願っているから。
しかし、実際にご飯を食べるのは目の前にいる口を閉ざしているおばあちゃん。この先も元気で過ごすかどうか、そのために食べるかどうかを決めるのは、口を閉ざしているおばあちゃん。
ん????
だとすると、自分達の「食べてもらいたい」という想いを押し付けすぎていないだろうか??
今「食べない」「食べたい意思はない」ことは、向き合っている職員は、頭ではわかっているのに、その時の「食べてもらいたい」という感情が勝り、専門職の使命感のようなものに動かされ「食べさせること」に情熱を注いでしまってはいないだろうか??
ある日、一人の職員が言った。
「このおばあちゃんとの関係の中で「食べる、食べない」ということしか話にでないのは良くないと思う。もちろん、食べてくれることに越したことはないけれど、もっと、なんか楽しいことしたくないのかな?行きたいところはないのかな?会いたい人はいないのかな??顔を合わせると食べて、食べて、ばっかり言われてて辛いのかもしれない。もっと他のところに目を向けた関わり方をしてみたい。」
朝起きてから、床に就くまで、職員から「食べて!食べて!」の熱視線。一日の大半を食べることに全集中してくる職員達と向かい合ってきたおばあちゃん。随分と根気よく付き合ってくれていたな、、きつかっただろうな、、と振り返った。
もちろん、専門職として食べてもらいたいという気持ちは大切なこと。しかし、その正義感や使命感のようなものが勝ってしまった時、本人が望まない食べさせ方をしてしまっている時が往々にしてあるような気がする。
極端な言い方かもしれないが、それは本人の意思に関係なく胃ろうや鼻腔栄養を体の中に流し込んでいることと変わりはないのかもしれない。
自然な形で老いていくと、当たり前に身体機能は低下していく。その低下の仕方は人それぞれで、年齢で決まるものでもない。食べること、飲むことが生きていくことに不可欠であるということを忘れてしまったり、理解できなくなってくる方ともたくさん接してきた。
そのような方々に対して、押してばかりで引いてない、うまく引くことができていない関わり方はお年寄り達を知らず知らずのうちに苦しめているのかもしれない。
今は一旦、「食べる」ことから少し距離をとり、馴染みの場所へ行ってみること、外の空気を吸うこと、環境を変えてみること、楽しく笑って過ごすこと等、五感を刺激してみることを考えながら関わるようになってきた。
この関わり方が功を奏して以前のように食べ始めてくれるかどうかは別として、、その方がこのおばあちゃんの暮らしにとっては「大事なこと」ではないだろうか、、という気がしている。
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↑↑↑ 2018年3月のよりあいの森のブログで投稿していたもの。食べることを考えつつも、食べるに繋がるための関わりも大事にしてきた日々の実践を伝えたかった記事。